海上権力から見た日米同盟 同志社大学 鈴木雄太

私は安全保障条約の可否について、海上権力の観点から現状における自衛隊の防衛力と日米関係を理解すれば、日本は日米安全保障条約を破棄して自国のみで安全保障対策を取るべきではないと考える。海上権力という聞きなれない概念については後ほど説明するが、何をおいても最初に確認しなければならないことがある。それは現状における自衛隊の防衛力の実態である。

一言に安保を破棄して自国のみで防衛すると言っても、それは果たして可能なことなのだろうか。確かに自衛隊の予算は年間5兆円弱もあり、これは群を抜いているアメリカにつぐロシア、イギリスとたいして変わらず、中国、フランスと並んで世界有数の金額となっている1。国連常任理事国と互角ということは、第二次世界大戦の敗戦国としては異例の状況であるといえる。また、海上自衛隊の対潜水艦戦能力(敵の潜水艦を補足、攻撃する能力)は非常に高く、なかでも哨戒機に関してはアメリカにつぐ規模をほこり、この方面の能力は実質世界第二位といえるものである。さらに掃海(海中や海底に敷設された機雷を除去する能力)の能力も極めて優れている。

しかし、その内容をよくよく吟味してみれば、予算の約4割以上が人件費、食糧費に消えており、施設整備費が約2%、営舎費・被服費が約2%、基地対策費が約10%、その他の支出が約2%となっており、純粋に軍事力の整備に使うことが出来るのは約40%の1兆9000億円程度である2。こうなるとせいぜい中くらい程度の国の軍事力を整備するのがやっとである。さらに、先程海上自衛隊の対潜水艦戦能力が実質世界第二位であると述べたが、実際はそれ以外の能力がほとんど無いに等しく、非常に偏りのあるものなのである。上記の事実からも分かるように、軍事力において自衛隊は非常にバランスが悪い。なぜこのような状況が現出したかといえば、同盟国の日本に対して帝国海軍の復活をどうしてもアメリカが認めたくなかったからという事情以外にも、アメリカが冷戦時に旧ソ連の潜水艦隊を抑えこむために日本に対潜水艦戦能力だけを突出させることを求めたということも大きく関わっている。掃海能力にしても、日本を根拠地とするアメリカ第7艦隊を始めとする米海軍が東洋で身動きをとりやすくし、同時に東アジアでの米軍の軍事作戦を支援するという意味合いにおいてである。こうしてみると、日米同盟において同盟の片務性が喧しく云々されることも理解できる。自衛隊の軍事力はアメリカによって要請されたもので、このように偏った軍事力では自国のみの防衛など不可能でまさしく「アメリカに守ってもらわなければ日本はすぐにやられてしまう」。ここから、日本人の間に「アメリカを怒らせたら同盟関係は解消され、日本は丸裸になってしまう」という卑屈な議論が蔓延し、この点を逆手にとってアメリカはさらなる要求を出してくるのである。しかし、だからといってアメリカへの全面的な追従やむなしといった意見や、安全保障条約を破棄し、憲法9条を改正し、軍備を進め、自国のみの防衛をしよう、戦争ができる国家にしようというのはあまりに性急な議論であると言わざるを得ない。苟もこの日本という一国家の将来を決める一大事なのであるから、時局を冷静かつ慎重に分析し、判断を下さなければならないだろう。大体にして、もしそこまで同盟に偏りがあり、アメリカの利益にならない事態が起こっているとするならば、先方から早速同盟解消の動きがあってしかるべきであろう。軍事同盟は慈善事業ではないのである。

ではなぜ米国は一見して不利益となるようなこの同盟を保ち続けるのだろうか。そこに大きく関わっているのが冒頭で述べた「海上権力」という考え方なのである。これは米国の世界戦略に深甚な影響を与えた海軍の軍人で、17、8世紀の世界の海戦史を研究したアルフレッド・セイヤー・マハンの唱えたもので、「……単に武力によって海洋もしくはその一部分を支配する艦隊の勢力のみにかぎらず、こうした艦隊が自ずから生まれ、健全に成長するために不可欠な母体になり、その確固たる支えになる平和的貿易・海運をも含む、広義での海上権力のことである」3と定義付けられている。要するに海上権力とは海洋を利用し、これによって世界を支配する能力のことである。マハンはこの海上権力を伸長するための不可欠な要因として次の6点を挙げている。それは、1地理的要因(両海岸がシーレーンに面するという島嶼性)、2地理的形態(湾口に富む海岸線)、3領土の規模(資源と富を供給できる領土的基盤)、4人口(必要な船員を供給できる人工的基盤)、5国民性(海洋的志向と船乗り生活への適性)、6政府の性格(進取的な海洋政策を推進できる政府形態)4とまとめられるのであるが、これはその殆どで日本に当てはまるものである。米国にとってこれが意味することは、日本を野放しにすればいずれまた脅威となるが、同盟関係を維持しておけば自国の世界戦略において非常に有利になるということである。

実際、米軍が日本に置いている燃料の貯油能力は、鶴見貯油施設が570万バレル、佐世保貯油施設が530万バレル、八戸が7万バレルで、鶴見はアメリカ本土も含め国防省管内で第二位の貯油能力、佐世保は同じく第三位の備蓄能力を誇り、鶴見、佐世保、八戸を合計した1107万バレルは世界最高の米海軍第7艦隊(太平洋の3分の2とインド洋のすべて、すなわち世界の半分をその作戦海域とする)を10回満タンに出来るほどの量である。仮にこれを海上自衛隊が使う場合、ゆうに二年間は活動できる。また、第7艦隊は横須賀、佐世保などといった港を母港にしているが、米海軍に母港を提供している国は日本をおいてほかにない。母港は船の本拠地のことであるが、ただ船が帰ってくる場所ということではなく、停泊、修理、補給、乗務員の休養などをも担う。修理といっても艦船はハイテクであるからそれなりの技術者を必要とするし、医療の設備、レクリエーションの設備も整っていなくてはならない。それは米国と同等の水準を持つ国にしか果たすことのできないものである。また、ミサイルや爆弾を貯蔵する弾薬庫も、広島県内に貯蔵している量だけでも陸海空の自衛隊が保持しているのよりも多い量がある5。

このような海上権力的観点に立った軍事上の諸事実を踏まえれば、アメリカにとって日本がいかに重要な同盟パートナーであるかが理解できるだろう。また、近年、アメリカがアジアでの戦略拠点としてきたフィリピンの米軍基地を撤退し、さらに韓国での大幅な軍備の縮小を迫られていることも加味すれば、米国にとって日本の相対的な重要性はますます高まっていると言える。ゆえに、最初に掲げた2つの問題的に関して、次の回答が導きだされる。すなわち、自衛隊は戦力投射能力を持たないため、自国のみの防衛は不可能であるが、アメリカはその海上権力的な重要性から言って日本を守らねばならないため日米安保を破棄してまで自国防衛に躍起になる必要はない。

ここにいわゆる「属国」的な響きを感じ取る向きもあるかも知れない。何だかんだと言っても結局は米国の求めるがままに自衛隊の軍備は行われ、有事の際は米国の軍事力を当てにするほかないからである。だが、日本が戦後、戦争による民間人の死者を出すこともなく今日まで至っていることを考えれば、日米安保は米国にとっての日本の海上権力的な重要性を逆手に取って日本に平和をもたらしたという点で大いに評価されてしかるべきではないだろうか。

日米安保を論ずる際に最も重視しなくてはならないのはまさしくこの事実である。安保を破棄して自国のみで防衛を行うということは、聞こえこそいいが、そのために多くの血が流れる危険性を有している。歴史に鑑みるならば、フランス革命がその好例である。とはいえ、我々がとらなくてはならないのはアメリカにとっての日本の海上権力的重要性にあぐらをかいて一切の変革を拒否する硬直した保守的思想ではない。それこそ「属国」的な姿勢であり、思考の自殺であろう。そうではなくて、真に日本の将来を憂うのであれば、昔日に照らし現状を把握することで「reformtoconserve」、すなわち「保守するための改革」を行うことこそが必要なのではないだろうか。これは具体的に言えば、日米同盟を保ちつつ、平和裡に、しかし米国の言いなりになるのではなく、主権国家としてのプライドを保ちながら、改正すべきところは改正していくということである。日米同盟はこのための戦略的かつ建設的な利点であって、決して破棄すべきものではないものであることは明らかである。最後に18世紀イングランドの政治家、エドマンド・バークの正鵠を射た言を引いて本論の総括としたい。「革新好みの精神は、一般的には利己的性格や視野の偏狭さの結果です。祖先を捨てて些かも顧みない人々は、子孫に思いを致すこともしないのです。相続という観念は、確実な保守の原理を涵養し、しかも改善の原理をまったく排除しないということを、イングランドの民衆は熟知しています」6。「イングランドの民衆」が「日本の民衆」と書き変えられるべきことは言うを俟たない。

1 平成22年度版の『防衛白書』によれば、2010年の各国国防費は日本が47,903億円、アメリカが692,032百万ドル、イギリスが36,702百万ポンド、ドイツが31,111百万ユーロ、フランスが39,178百万ユーロ、ロシアが12,570.141億ルーブル、5,191億元であった(防衛庁編著(2010年)『日本の防衛』防衛庁、資料23)。
2 防衛庁編著、前掲書、資料22。
3 マハン著、北村謙一訳(1982年)『海上権力史論』原書房、46頁。
4 マハン、前掲書、第一章「シーパワーの要素」参照。
5 小川和久(2009年)『日本の戦争力』新潮文庫、120~123頁参照。
6 バーク著、半澤孝麿訳(2004年)『新装版フランス革命の省察』みすず書房、43~44頁。